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追儺と節分・・・
今回は、平安時代の宮中行事のひとつで大晦日の夜、内裏で催されていた祓の行事、「追儺」をご紹介します。
別名、儺(おにやらい)ともいいます。
大晦日の夜、悪鬼を祓い、厄災を除いて、新年を迎える宮中の年中行事で、現代の節分の行事のルーツです。

節分は年に四回あります。
春分、夏至、秋分、冬至の各季節を区切る節気の前日を節分といいますが、このうち、立春が1年の初めと考えられることから春の節分が最も重視され、一般には単に「節分」と言えば、春の節分を指すものとなっています。
立春(春分)を新年とすれば春の節分は大晦日にあたります。

追儺の儀式・・・
平安時代の宮中の追儺の儀式を簡単に説明しますと
『----戌の刻(午後八時頃)から始められ、天皇は紫辰殿に出御します。
まず、陰陽師が祭文を読み、次に「シン子」と呼ばれる童子二十人ほど従えて、鬼払い役の「方相氏」が登場します。
黄金の4つ目の怖い面をつけた方相氏(主役・祓い役)が矛と盾を持ち、その矛を地面に打ち鳴らしながら「鬼やらい、鬼やらい」と大声で唱えながら、宮中を歩き回り、目に見えない疫鬼を内裏の四門に追い回し退散させます。
そしてその後には殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続きます。----』
桃や葦にも古来より邪気を祓う力があるとされていました。
方相氏は普通、大舎人の中から体の大きなものが務めることになっていました。
枕草子や源氏物語にもその行事の様子が記されています。

今、メディアでとりあげられ話題となっている陰陽道は平安時代の宮中行事と深く関わっており、節分以外にも、七五三、七夕なども、この暦がル−ツになっています。

追儺の歴史・・・
元々は中国の風習で、藤原京時代に唐の時代のものが伝わったとされます。
日本では
『----慶雲3年(706)に疫病がはやり多くの百姓が死んだため、「土牛」を作って疫気を祓った。----』
という記事が続日本書紀に出ており、これが追儺の行事の始まりであるとされています。

現在の節分のスタイルは、節分の日に人が「鬼は外、福は内」と唱えながら豆をまきますが、これは京では平安時代から始まったとされ、全国化するのは室町時代ごろからだと思われます。

現在・・・
現在、京都では節分に「四方参り」と云って北東の吉田神社、南西の壬生寺、南東の伏見稲荷大社、北西の北野天満宮へお参りする風習がありますが、今では表鬼門の吉田神社、裏鬼門の壬生寺へお参りする人が多いようです。(京都市内の他の多くの社寺でも節分行事は行われています。)
また平安神宮では節分行事として今年も時代考証にもとづいた「大儺之儀(だいなのぎ)」が2月3日(節分日)に行われます。
平安時代、宮中で行われていた年中行事「追儺式」を再現した儀式で、式、作法、祭具、衣裳にいたるまで綿密に再現されており、平安京の正庁朝堂院を模した平安神宮の社殿にて行われるのですから見ごたえもあることでしょう。