今回は、激動の幕末を駆け抜けた「新撰組」をテーマに京都をめぐります。
後編では、新撰組と因縁の深い、坂本龍馬〔さかもとりょうま〕ゆかりの場所をご案内します。
1866年、薩長同盟が成立した翌年の6月に坂本龍馬は京都に入り、
材木商「酢屋〔すや〕」を自ら結成した「海援隊〔かいえんたい〕」の屯所〔とんじょ〕とします。
現在も「酢屋」は木工芸を販売するお店としてそこにあり、2階はギャラリーになっています。
店の前の「龍馬通〔りょうまどおり〕」は、深夜までネオンが点り、若者たちでにぎわう界隈で、
別名「親不孝通《おやふこうどおり》」とも呼ばれています。
10月、かねてより龍馬が提案していた「大政奉還〔たいせいほうかん〕」が決定。
血を見ることなく、政権が朝廷に返還されました。
11月、酢屋から近江屋〔おうみや〕に移りますが、その10日後、「近江屋事件」が起こります。
近江屋の2階で、同志の中岡慎太郎〔なかおかしんたろう〕とともに惨殺されました。
喜びもつかの間の、あっけない最期でした。
くしくも事件のあった11月15日は、龍馬の誕生日でもあります。
ところで龍馬らを暗殺したのは、誰でしょう?
当初、新撰組だと思われていましたが、じつは「見廻組〔みまわりぐみ〕」の犯行であったことが明治維新後、わかります。
でも、新撰組の日頃の行いを考えると、疑われても仕方がなかったのかも。
近江屋も、中岡慎太郎の住居跡も、今はなく、石碑だけがあります。
坂本龍馬にゆかりの地としてはずせない場所に、伏見があります。
当時の伏見は伏見の港が三十石船〔さんじっこくぶね〕や高瀬舟がひしめき合う、にぎやかな城下町でした。
三十石船には、坂本龍馬も乗ったという話が残されています。
船で往来する人たちのために、船宿も界隈に軒を並べており、その中に「寺田屋」もありました。
旅館「寺田屋」は坂本龍馬とお竜のロマンスの場所であり、また、「寺田屋騒動」の舞台として有名なお店です。
新撰組が京に入る約1年前に「寺田屋騒動」は起きました。
薩摩藩の内部でいざこざが起こり、定宿《じょうやど》にしていた「寺田屋」で20数名による大乱闘が繰り広げられます。
多数の死傷者を出し、宿の床は血の海となりましたが、薩摩藩が「藩の恥」として、職人をかき集め、すぐに元通りに直してしまいました。
なので、同志打ちによるこの騒ぎの跡を、龍馬は目にすることはなかったようです。
現在「寺田屋」は、旅館は休業していますが、有料で内部が見学できます。
寺田屋正面には龍馬の像があり、2階の床の間には肖像画の掛け軸がかけられています。
これをもとに京都・円山公園の銅像は作られたそうです。
「寺田屋騒動」から4年後の1月、龍馬が寺田屋の2階でくつろいでいるところを、
伏見奉行所の捕吏〔ほり〕に取り囲まれてしまいます。
入浴中のお竜が、裸のまま裏階段を駆け上がり、急を知らせたため、龍馬は難を逃れることができました。
伏見は酒処《さけどころ》としても有名です。
新撰組と、龍馬の波乱に満ちた生涯に思いをはせながら、日本酒をいただくのもいいかも知れません。
【新撰組めぐりの心得】------------------------------------------------------------------
◎見学できる施設の中には、不定休のところもあります。
あらかじめ予約を取っておくか、開館日時をチェック・お問い合わせの上、おいでください。
◎新撰組のお墓等史跡は、住居として住んでおられるところもあります。
お墓参りの際、住んでいる方の迷惑にならないよう、挨拶をしてからお参りしましょう。
◎飲食物などのお供物は、置きざりにするとかえってゴミになります。各自持ち帰るようにしましょう。
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